待合室のココア
父が救急車で運ばれた夜、病院の待合室で、手術が終わるのを一人で待っていた。
深夜二時。待合室にはもう一人、中年の女の人が座っていた。その人も誰かを待っているようだった。
話はしなかった。二人で同じ壁の時計を見ていた。時計は五分遅れていて、二人ともたぶん気づいていた。
三時すぎ、女の人が立ち上がって、自販機で何か二本買った。一本をわたしに差し出した。
「よかったら」
ココアだった。缶の。熱すぎて持てなかったので袖で包んだ。
「どなた待ってるの」
「父です。心臓の」
「うちは息子。バイク」
それから少し話した。お互いの家族の話。父は釣りが好きなのに釣れないこと、女の人の息子さんは二十歳で、バイクのローンがまだ三十回残っていること、そんなどうでもいい話ばっかりだったけれど、話している間は時計を見なくてすんだ。
四時ごろ、手術室の扉が開いて、医師が女の人の名前を呼んだ。
女の人は立ち上がった。医師の顔を見て、何か分かったみたいだった。医師が何か言った。女の人はその場に座りこんだ。
わたしは何もできなかった。ベンチに座ったまま、ぬるくなったココアを握っていた。女の人は看護師さんに支えられて奥の部屋に入っていき、ドアが閉まった。
五時すぎに父の手術が終わった。成功した。父は一か月後に退院して、半年後にはまた釣れない釣りに行くようになった。
あの女の人の名前は知らない。何もしてあげられなかった。自分のことで精一杯だったわたしに、ココアを買ってくれた人。自分の息子が、あの扉の向こうにいるときに。
わたしは今、看護師をしている。
夜勤の日、待合室に一人で誰かを待っている人がいると、自販機で何か買う。ココアとは決めていない。お茶のことも、コーンポタージュのこともある。
一回渡したら「甘いの苦手で」と言われた。そういうこともある。
読み終えて、どうでしたか