創作恋愛・夫婦約2分

いつもの土曜日

妻に外出許可が出た。医者は言葉を選んでいたけど、たぶん、これが最後だった。

どこに行きたいか聞いたら、妻は「いつもの土曜日」と言った。

いつもの土曜日。朝、駅前のパン屋でクロワッサンを買う。公園のベンチで食べる。鳩が寄ってくるので、妻がこっそりパンくずをやって、わたしが「やめなさい」と言う。本屋でそれぞれ一冊ずつ本を買う。夕方、商店街の肉屋でコロッケを二つ買う。家で食べる。

特別なことは何もない。二十三年、雨の日以外はほとんどこれだった。

「温泉とか、海とか、行ってもいいんだよ」

「いい。遠いと疲れるし」

妻は車椅子で、クロワッサンを半分しか食べなかった。残りは鳩にやった。わたしは「やめなさい」と言った。言いながら、ちょっと声が変になった。妻は気づかないふりをした。

本屋では、妻は料理の本を買った。家に帰っても作れないのに。「写真見るだけ」と言った。

肉屋のおばちゃんは、妻の車椅子を見て一瞬黙って、それからいつもの声で「コロッケ二つね、はい、一個おまけ」と言った。二十三年で初めてのおまけだった。

家に帰ると、妻は居間を見回して「ただいま」と言った。わたしに言ったのか、家に言ったのか、わからなかった。

コロッケを食べながら、妻が言った。

「土曜日さ、わたしがいなくなっても、やってね。パン買って、公園行って、本屋行って、コロッケ」

「一人で?」

「一人で。コロッケは一個でいいから」

「おまけがついたら?」

妻は考えて、「それは食べて」と言った。

妻が死んで、一年になる。

土曜日、わたしはクロワッサンを一つ買う。公園で食べる。鳩が寄ってくる。パンくずはやらない。やらないようにしている。本屋で一冊買う。肉屋でコロッケを一つ買う。

肉屋のおばちゃんは、ときどきまだ間違えて、袋に二つ入れる。

わたしは「一つです」と言う。おばちゃんは「あら、そうね」と言って、一つ取り出す。毎回、同じやりとりをする。わたしも、おばちゃんも、たぶんわざとだ。

#泣ける話 #大切な人に会いたくなる話

読み終えて、どうでしたか

保存する・アプリで読む LINEで送る

アプリでは、毎日新しい物語が届きます。

← 前の話見てもいい?

この話を読んだ人におすすめ

128
創作動物約3分

山羊のメイ

昭和三十年代の信州の家で、小学生の私が乳をしぼっていた山羊。修学旅行の年に、いなくなった。

66
創作見知らぬ人約2分

隣の席のハンカチ

母の危篤で乗った新幹線、隣に座った老紳士がしてくれた話。

4
創作家族約2分

半分の歩幅

息子の顔を忘れた父と、毎朝歩く川沿いの道。

78
創作別れ約2分

母の検索履歴

亡くなった母のスマートフォンに残っていた、娘についての検索。

2
創作家族約2分

送信されなかった下書き

母の古い携帯に残っていた、七年前の夜の下書き。

1
創作家族約2分

塩むすびの味

料理が壊滅的な父が、八年間握りつづけた具なしのおにぎり。