プール開放、十四日間
八時五十分、坂巻は監視台の脚に名簿のクリップボードを結わえつけた。水面に桜の葉が二枚浮いていた。網ですくって、フェンスの外へ捨てた。
九時に門が開いて、子供たちが走ってきた。「走らない」と坂巻が言った。誰も止まらなかった。
名簿の二年三組の欄に、西田航輝という名前があった。航輝は最後に来た。紺の水着の上にTシャツを着て、頭には水泳帽ではなく野球帽をかぶっていた。シャワーを浴びずに、プールサイドの日陰に座った。
「シャワー浴びて」
航輝はシャワーの下に立った。水が出ると一歩下がった。肩だけ濡れた。
「よし」と坂巻は言った。
航輝は日陰に戻ってプールの縁に腰かけ、くるぶしまで水に入れた。そこから動かなかった。十時半の休憩の笛まで四十分、そのままだった。
二日目も同じだった。三日目は、くるぶしではなく、すねまで入れた。坂巻は名簿の航輝の欄に丸をつけた。出席の丸である。
五日目、坂巻はビート板を一枚、航輝の横に置いた。航輝はそれを見てから膝の上にのせた。抱えたまま、また四十分座っていた。
七日目は雨で中止になった。坂巻は職員室で、二年三組の水泳カードの束をめくった。航輝のカードは一年生の欄から空いていた。「かおをつける」「もぐる」「けのび」。どこにも判子がなかった。坂巻はカードを束に戻して、輪ゴムを二重にかけた。
八日目、隣のコースで六年生が飛びこみをした。水しぶきが航輝の野球帽にかかった。航輝は帽子をとって絞った。坂巻が笛を吹いた。「飛びこみ禁止」。六年生は「すいませーん」と言って、もう一回飛びこんだ。坂巻はもう一回笛を吹いた。航輝は絞った帽子をかぶり直した。前と後ろが逆だった。
十日目、坂巻は監視台を降りて航輝の隣に座った。ジャージの裾をまくって、自分も足を水に入れた。坂巻の脛は、そこだけ日に焼けていなかった。
「先生、泳げるの」
「泳げる」
「どのくらい」
「あっちの端まで」
航輝はプールの向こうを見た。二十五メートル先で、黄色いコースロープが壁にぶつかって終わっていた。
「ふうん」
二人はそのまま休憩の笛まで座っていた。笛は、坂巻の首から下がっていたので、坂巻が吹いた。
十二日目、航輝は水の中に立った。水は腰まであった。両手でプールの縁をつかんでいた。坂巻は監視台の上にいた。名簿の丸の横に、小さく「立」と書いた。
十四日目は最終日だった。空には朝から入道雲が出ていた。
十時二十五分、航輝は縁をつかんだまま、顔を水に近づけた。鼻の先が水面に触れて、離れた。もう一回近づけた。今度は顔ごと沈んだ。
水の上には白い水泳帽のてっぺんだけが見えていた。野球帽は、プールサイドのビート板の上に置いてあった。
顔を上げた航輝は咳きこんで、鼻から水を出した。それから監視台を見上げた。
坂巻は監視台の上から、指を三本立てた。
航輝は縁から片手を離して、指を四本立てた。
読み終えて、どうでしたか