代講、六日間
英語の大川先生が、十月の頭から二週間アメリカへ研修に行くことになった。県の事業だという。三年二組の英語は週に三時間あって、六時間ぶんの空きが出た。
教頭が職員室で私の机の前に来た。
「関口先生、三年二組、数学も持ってますよね」
「持ってます」
「生徒の顔もわかってますよね」
「わかってます」
「じゃあ」
じゃあ、で決まった。私は数学の教師で五十五歳だ。英語は高校二年で赤点をとって以来、まともに口から出したことがない。新婚旅行のハワイでは、ホテルの朝食のオムレツを頼むのに三回聞き返された。中身を聞かれていたらしい。結局チーズもハムも入っていないオムレツを食べた。
大川先生は几帳面な人で、六時間ぶんの指導案を全部作っていってくれた。教科書の本文を読む。CDを聞かせる。新出単語を板書する。ワークの何ページ。私がやるのは、言われたとおりに進めることだけだった。
一日目。
本文はアメリカの高校生が日本の祭りに来る話だった。CDを流して、そのあと生徒に一文ずつ読ませる。順番に当てていった。
三年二組は三十二人いる。英語の時間の声は、数学のときとあまり変わらなかった。眠そうなのが半分、まじめなのが四分の一、残りは私の板書の字を見ていた。私の書く筆記体はたぶん筆記体ではなかった。
窓際の三列目に宮坂という女子がいる。数学の小テストではいつも八割くらいとる。声は小さい。
宮坂に当たった文は、ウィー・ウェント・トゥー・ザ・フェスティバル、だった。宮坂はそう読んだ。カタカナで書いたらそのままになる読み方で、隣の男子とほとんど同じだった。
二日目にも同じことがあった。
三日目、私は自分で読んでみることにした。CDの声をまねして、本文の最初の段落を読んだ。
ザ、のところで舌を歯で挟むのだと大川先生のメモに書いてあったので、そうした。強く挟みすぎた。痛かった。教室の前のほうで女子が二人、机に顔を伏せて肩をふるわせた。
「先生、いまの何」
「ザ」
「ザじゃなかった。ズァ、みたいな」
「ズァだ」
これでいちばん後ろの席まで起きた。数学では見たことのない数の顔がこっちを向いた。悪くないと思った。思っただけで、次の行もやっぱり舌を噛んだ。
その日の宮坂は笑っていなかった。教科書を見ていた。口だけが、私の読んだ文を小さく言い直していた。少なくとも私にはそう見えた。見間違いだったかもしれない。
四日目の放課後、職員室で大川先生の残していった名簿を見た。名前の横に小さな字で書きこみがある。宮坂のところには「小5までシアトル」とあった。
それで何がわかるわけでもない。私は名簿を閉じて、その日の数学の小テストの丸つけをした。宮坂は十問中九問。間違えた一問は、マイナスの符号の書き忘れだった。
五日目、CDプレーヤーが壊れた。
これは本当に壊れたので、私が何かしたわけではない。再生ボタンを押すとトレイがうなって、ガガッと音がして止まる。三回やって三回止まった。視聴覚室に予備を取りに行こうとしたら、学年主任が使っているという。
「先生が読むの?」と前の席の男子が言った。期待のこもった声だった。おとといの舌の件だ。
「読まない」
教室を見回した。三十二人いる。
「宮坂」
宮坂が顔を上げた。
「読める人に読んでもらいたい。宮坂、頼めるか」
言ってから、余計なことをしたかと思った。小学五年で帰ってきた子が中学でどういう三年間を過ごしてきたのか、私は知らない。英語の時間のあの読み方は、自分で決めてやっているのかもしれなかった。数学でマイナスを書き忘れるのとはわけがちがう。
宮坂は少し黙った。
「どっちで読めばいいですか」
「どっちって」
「いつものと」
いつものと、何なのかは言わなかった。
「CDのほうで」と私は言った。
宮坂は立った。教科書を両手で持って、一回息を吸った。
それから読んだ。
教室がどうなったかは、うまく書けない。音が変わった、というのがいちばん近い。ザもフェスティバルも、さっきまでの三十二人の誰とも違った。私のズァとはもちろん違った。速いのに一個ずつ聞きとれた。窓の外の校庭で陸上部がハードルを並べる音がしていて、それが妙によく聞こえた。
読み終わると、宮坂はすぐ座った。
後ろのほうで誰かが「すげえ」と言った。もう一人が「え、ちょっと待って」と言った。前の席の男子は振り返ったまま口を開けていた。
宮坂は教科書を閉じて、また開いた。顔は赤くなかった。耳は赤かった。
「ありがとう」と私は言った。ほかに思いつかなかった。英語で言うべきだったかもしれない。思いついたのは家に帰ってからだった。
六日目、最後の時間。CDプレーヤーは直っていた。用務員の吉井さんが、中にゼムクリップが一個はさまっていたと言って持ってきてくれた。誰のクリップかはわからない。
私はCDを流さずに黒板の前に立った。
「宮坂、もう一回頼めるか」
宮坂は眉を寄せた。それから立って、読んだ。きのうよりゆっくりだった。読みながら一回、私のほうを見た。
終わりのチャイムが鳴ったとき、私はチョークで黒板の右下に「the」と書いて、その横に小さく「歯で挟みすぎない」と書いた。
消すのは来週戻ってくる大川先生にまかせた。
読み終えて、どうでしたか