半分の歩幅
父が私を息子だとわからなくなって、半年になる。
散歩だけは続けている。朝七時、家から川沿いの公園まで往復四十分。父は私を、市役所から来た人だと思っているらしい。いつも「お忙しいところすみませんね」と言う。
私は訂正するのをやめた。最初の月は毎日訂正して、毎日父を混乱させた。
「この道は、息子とよく歩いたんですよ」
父がそう言ったのは、河原の菜の花が咲きはじめた朝だった。
「息子さん、いらっしゃるんですね」と私は言った。自分の話を他人のように聞くのにも、慣れた。慣れたことにしている。
「ええ。小さいころは歩くのが遅くてねえ。すぐ抱っこって言うんです。重たくて」
覚えていない。
「だから歩幅をね、半分にして歩いたんです。そうすると、ちょうど並ぶんですよ。あいつ、それで得意になって、自分が速く歩けてると思ってる」
父は笑った。入れ歯がかちっと鳴った。
「息子さんは今、どうされてるんですか」
父は少し考えてから、川のほうを見た。
「さあ。忙しいんでしょう。東京で、なんとかっていう会社にいます。名前が長くてね、覚えられない」
私の勤め先は、たしかに名前が長い。カタカナが十一文字ある。
「たまには帰ってきてほしいですね」と父は言った。
私は毎日帰っている。半年前から、東京の会社は休職して、実家にいる。
何か言おうとしたけれど、言うことがなかった。黙って歩いた。
気がつくと、私は父より半歩前を歩いていた。父の足は、去年より明らかに遅くなっている。私は歩幅を縮めた。半分くらいに。
並んだ。
父はそれに気づかないまま、「今年は菜の花が早いねえ」と言った。
「そうですね」
「息子が小さいころはね、ここでよく摘んで、家内に怒られたんですよ。勝手に摘んじゃいけないって」
「そうなんですか」
「そうなんです」
私たちは同じ速さで、公園の入口まで歩いた。
読み終えて、どうでしたか