創作あしたの灯約2分

歩くのが遅い人

新宿駅の南口から会社まで、ふつうの人は七分で歩く。僕は十一分かかる。

足が悪いわけではない。ただ遅い。小学校の遠足でも、いちばんうしろで先生と並んで歩いていた。先生はずっと「もうちょっと急ごうか」と言っていた。

東京の朝は、遅い人に厳しい。

うしろから来た人が、右から、左から、僕を追い抜いていく。追い抜きざまに小さく舌打ちする人もいる。甲州街道の横断歩道では、青になった瞬間に人の波がどっと押してくる。その中で僕は、流れの中の石みたいになる。

だから三年間、朝はずっと急いでいた。早足で歩くと、会社に着くころには背中が汗で濡れている。エレベーターの中で息が上がっているのを隠す。

去年の秋、左の足首をひねった。治るまで二週間、急ぎたくても急げなかった。

歩道のいちばん端を歩くことにした。建物の側。ここなら追い抜く人のじゃまにならない。十一分どころか十四分かかった。

端を歩いていると、目の高さに、いろんなものがあった。

雑居ビルの一階に、朝七時から開いている小さな花屋があった。バケツに入ったケイトウが三百円。三年間通っていて、一度も気づかなかった。

郵便ポストの上に、誰かが手袋を片方だけ置いていた。落とし主が通るのを待っているみたいに、指を上に向けて。

高架下の壁に、チョークで猫の絵があった。毎朝少しずつ描き足されていて、四日目にひげが生え、七日目に首輪がついた。

足首が治ってからも、僕は端を歩いている。

追い抜かれるのは変わらない。舌打ちもたまにされる。でも、真ん中を急いでいたときより、会社に着いたときの気分がいい。汗もかかない。

花屋のケイトウは、先週からコスモスに変わった。

猫の絵は、今朝、隣に二匹目が描かれはじめていた。まだ耳しかない。明日、たぶん顔ができる。

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