運賃箱の二つのボタン
新しい運賃箱が入ったのは九月の第一月曜だった。
前の機械と大きさはほとんど変わらない。違うのは運転席の左にある小さな画面と、その下に並んだ六つのボタンだ。研修は営業所の会議室で一時間。メーカーの人がスライドを三十枚くらい映して、最後に「わからないことがあったら、いつでも」と言った。二十二年この仕事をしていると、いつでも、というのがいちばん聞きにくい時間だと知っている。
六つのうち四つはすぐ覚えた。残りの二つ、「取消」と「別払」の使い分けが、何度マニュアルを読んでも頭に入らない。
それで三週間、だましだましやってきた。
困るのはICカードの残高が足りない客が来たときだ。足りない分を現金で払ってもらう。そのとき押すのが「別払」なのか、いったん「取消」してから現金にするのか。最初の週に一度そういう客が来て、私はとりあえず「別払」を押した。画面に赤い文字が出た。うしろに五人並んでいた。結局、残高不足の高校生には「次でいいよ」と言って降ろした。百三十円は私の財布から運賃箱に入れた。
二回目は先週の木曜で九十円。三回目は今朝で二百十円。合わせて四百三十円になる。
昼の休憩で営業所に戻ると、休憩室に入社二年目の三好さんがいた。二十四歳。ほうじ茶のペットボトルを両手で持って、スマホで猫の動画を見ていた。研修のとき、メーカーの人にいちばん質問していたのが彼女だった。私はその横で腕を組んでいた。
自販機で缶コーヒーを買った。百二十円。座ってプルタブを開けて、閉めようとした。開けた缶は閉まらない。
「三好さん」
「はい」
「運賃箱の、別払い。あれ、残高が足りないときって」
自分で言いながら、声が小さくなっていくのがわかった。三好さんは猫の動画を止めて「あ、あれ」と言った。
「わかりにくいですよね。わたしも最初、取消押しちゃって」
先に「取消」を押すと、カードの読み取りごと消えてしまう。カードを当てたまま「別払」を押して、そのあと現金。順番が逆なだけだった。三好さんはメモ帳の端に機械の絵を描いて、ボタンに一、二と番号を振ってくれた。絵の運賃箱にはなぜか顔がついていた。
「ほかにもありますか」
ない、と言いかけて、缶コーヒーを一口飲んだ。
「両替のとき、千円札がそのまま戻ってくることがあって」
「あ、それはですね」
休憩は四十五分あった。そのうち三十分を使った。三好さんの絵は全部で四つになった。四つとも運賃箱は笑っていた。
午後の便は十四時十二分発の駅前行きだった。三つ目の停留所で制服の女の子が乗ってきてカードを当てると、ピッと低い音が鳴った。画面に残高不足と出る。
カードはそのままで、と言うと、女の子は鞄の中の財布を探しはじめた。私は左手で二つ目のボタンを押した。画面は青いままだった。
三好さんの絵は、運転席の日よけにクリップで留めてある。明日は、画面の右上にずっと出ている小さな鍵のマークのことを聞くつもりだ。研修のスライドの何枚目かに出ていた気がするが、何枚目だったかは覚えていない。
読み終えて、どうでしたか