創作挑戦約2分

四十歳の見習い

四十で会社を辞めて、パン屋に弟子入りした。

妻には「正気?」と言われた。同期には「ミッドライフクライシスってやつ?」と笑われた。自分でもちょっとそう思っていた。

それでもどうしてもやりたかった。子どものころ祖母が焼いてくれた丸パンの味が、ずっと頭のどこかにあった。昭和四十年代の団地の台所で、オーブントースターで焼いたやつ。

弟子入りした店の親方は六十代で、口の悪い人だった。朝三時に起きて生地をこね、成形して焼く。二十代の先輩たちに混じって毎日怒鳴られた。

「おそい」「雑」「やり直し」「それ、パンか?」

手は荒れて、腰を痛めて、三か月目には腰にコルセットを巻いて出勤した。先輩に「おじさん、無理しないでください」と言われた。二十三歳の子に。

半年たったころ親方に呼ばれた。

「おまえ、なんでパン屋やりたいの」

祖母の丸パンの話をした。粉と塩と水とイーストだけの、ぼそぼその、甘くない丸パン。

親方は「ふーん」と言って、

「じゃあ焼いてみろ。それ」

記憶だけを頼りに作った。三回失敗して、四回目でなんとか丸くなった。形はいびつで焼き色にむらがあった。

親方はそれを一個取って、ちぎって食べた。長いこともぐもぐしていた。

「……まずくはない」

それだけ言って作業に戻った。

次の日、店の棚の端っこにあの丸パンが並んでいた。値札には親方の汚い字で「ばあちゃんパン 120円」と書いてあった。勝手に名前をつけられていた。

五年たって自分の店を開いた。住宅街の、元たばこ屋だった小さい物件。

一番売れるのはあの丸パンだ。値段は百五十円に上げたが、名前は「ばあちゃんパン」のままにしている。変えようとしたら常連さんに反対された。

近所の小学生が、学校帰りに一個買っていく。

「おじさん、これ、ばあちゃんの味する」

「きみのばあちゃん、パン焼くの」

「焼かない。でも、する」

よくわからない。それでも毎日一個買っていく。

#元気が出る話

読み終えて、どうでしたか

保存する・アプリで読む LINEで送る

アプリでは、毎日新しい物語が届きます。

← 前の話最後の在校生

この話を読んだ人におすすめ

87
創作挑戦約2分

四段の跳び箱

六年間一度も跳べなかった跳び箱を、卒業の一週間前に。

86
創作挑戦約2分

みんなの店

閉店を決めた喫茶店の主人を、常連たちが引き止めた方法。

85
創作挑戦約2分

口で書く小説

字を読むのが苦手な少年の物語を、先生がノートに書き取った。

159
創作挑戦約3分

親子リレーまで十九日

小学二年の娘の運動会に、親子リレーがある。四十一歳、最後に全力で走ったのはたぶん高校の体育祭だ。

109
創作挑戦約3分

仮免、三回目

六十五歳で教習所に通いはじめた母の話。

84
創作挑戦約2分

腕で走る

事故で歩けなくなった元マラソン選手に、後輩が見せた一本の動画。