口で書く小説
小学生のころ、字を読むのがすごく苦手だった。
文字がゆれて見えて、行を飛ばして、同じ行を三回読んだりした。あとでディスレクシアという学習障害だとわかったけれど、当時はそんな言葉を使う人は周りにいなくて、僕はただの勉強ができない子だった。
国語の音読の時間は地獄だった。つっかえるたびに、クラスの誰かが笑った。
五年の担任の先生だけは違った。
放課後、先生は僕を残して本を読み聞かせてくれた。「読めないなら、先生が読むから」。僕は目をつぶって聞いた。
耳からだと物語が入ってきた。冒険も友情も裏切りも、文字ではぜんぜんたどり着けなかった場所だった。
ある日先生が言った。
「今度は、あなたがお話を作ってみて。書かなくていい。しゃべってくれたら、先生が書く」
僕は頭の中の話をしゃべった。宇宙を旅する犬の話。犬の名前はポチで、ロケットの燃料はドッグフードだった。先生はそれを一字ずつノートに書き取った。途中で「燃料、ドッグフードでいいの?」と聞かれた。いいと言った。
「すごいね。あなた、お話作るの上手だよ」
生まれて初めて勉強で褒められた。お話作りが勉強なのかは知らないけど。
それから話を作り続けた。中学ではカセットに吹き込んで、高校ではパソコンの音声入力を使った。字を読むのは相変わらずだめだったが、話を作るのは誰よりも好きだった。
二十八歳のとき、小説の新人賞をもらった。授賞式でスピーチをした。
「僕は今も、字を読むのが苦手です。この小説も、しゃべって書きました。ゲラのチェックは、音声読み上げでやりました。編集の人に、誤字を三十か所見逃しましたと言われました」
会場が笑った。
客席の後ろのほうに、白髪の女の人がいた。すぐにわかった。
授賞式のあと、先生はかばんから古いノートを出した。宇宙を旅する犬の話。先生の字で書いてあった。表紙に「著者 五年二組 こうへい」。
「最初の小説。ずっと持ってた」
最後のページを開いた。ポチはドッグフードが切れて月に不時着し、話はそこで終わっていた。
「続き、書かなかったんですか」
「あなたがしゃべらなかったからよ。チャイムが鳴って、帰っちゃったの」
二十年、月に置き去りにしていた。
今はポチの続きを書いている。燃料はまだドッグフードだ。
読み終えて、どうでしたか