父の豆知識は九割うそ
うちの父の豆知識は九割うそだ。残りの一割は、うそか本当か誰にもわからない。
たとえば国道十七号の途中にある短いトンネル。父によるとあれは「ジブリのモデル」で、宮崎駿がここで車を停めて三十分スケッチしていったらしい。小一の私はそれを信じて学校で言いふらした。担任の先生が「へえ」と言ったときの、あの微妙な顔を私はわりと根に持っている。
ほかにもある。ペンギンは膝が曲がらないふりをしているだけ。ブロッコリーは茎のほうが栄養が三倍。群馬には海がないけど、昔は一回だけあった。最後のやつは中学で調べたら本当で、ただし昔というのが何千万年も前の話だった。そういうのがたまに混じるから厄介なのだ。
母はとっくに相手にしていない。父が「知ってるか」と言いかけた時点で「知らない、知りたくない」と返す。弟は小四なので、まだ半分くらい信じている。かわいそうに。
で、二月十二日。前橋から車で一時間半かかる、私の第一志望の入試の日。電車で行くって言ったのに、父は前の晩から車を洗っていた。軽のタント。洗ってもタントはタントだ。
朝六時四十分に出た。父はコンビニで私にカフェオレを買い、自分には缶コーヒーのブラックを買った。いつもは微糖なのに。
「受験の日の親はブラックって決まってんだ」
「決まってない」
「決まってんだよ。昭和の文部省が決めた」
参考書を開いたけど一行も頭に入らなかった。いや、一行くらいは入ったかもしれない。古文の助動詞の表の、「けり」のところだけ。父はラジオをつけてすぐ消した。それからまたつけて、交通情報だけ聞いて消した。
高速に乗ってしばらくして、父が右側の山を指さした。
「あの山な、てっぺんに郵便ポストがある」
「ふうん」
「日本でいちばん高いところにある、じゃないほうのポストな。二番目」
「二番目のポストの話して誰が得すんの」
「二番目は誰にも覚えてもらえないから、父さんが覚えてやってんだよ」
ちょっと笑ってしまって、悔しかった。
途中のサービスエリアでトイレに寄った。戻ったら父が車の外でスマホを耳に当てて、誰もいない方向にぺこぺこ頭を下げていた。たぶん会社だ。父は運送会社で配車の仕事をしていて、平日に休むと誰かが困るらしい。今日のために無理して休んだのかと思ったら何か言いたくなって、でも何を言えばいいのかわからなかったので、カフェオレの残りを飲んだ。ぬるかった。
大学の前は、送りに来た車でちょっとした渋滞になっていた。どの車も、運転席の親がやけにまっすぐ前を見ている。
「ここでいい」
「正門まで行く」
「いいって。恥ずい」
父はハザードを出して歩道の脇に寄せた。私はシートベルトを外して、受験票がリュックの前ポケットに入っているか三回確かめた。三回目に父が「入ってる」と言った。見てないくせに。
ドアに手をかけたところで、父が言った。
「父さんな、ここ受けたことあるんだよ」
私は手を止めた。
父は高卒だ。工業高校を出て、そのまま今の会社に入った。母からそう聞いているし、本人からも聞いている。去年の年末、会社の飲み会から帰ってきた父が台所で「父さんは学がないから」と三回くらい言っていたのを、私は階段の途中で聞いていた。
「うそつけ」
「うそだよ」
父はハンドルに両手をのせて、フロントガラスの向こうの受験生の列を見ていた。
「うそだから早く行け。遅れんぞ」
後ろの車がクラクションを短く鳴らした。私は車を降りた。ドアを閉める前に何か言おうとして、出てきたのは「ブラック、飲めんの」だった。
「飲めねえよ。まずい」
父は缶をドリンクホルダーに戻して、ハザードを消した。
正門をくぐるときに振り返ったら、タントはもう角を曲がるところだった。ウインカーが三回光って、見えなくなった。
試験は国語からだった。問題用紙が配られる前に、試験監督が「携帯電話の電源は切りましたか」と言った。私はリュックの中で母へのLINEを「お父さんってさ、むかし」まで打って、消して、電源を切った。
読み終えて、どうでしたか