逆さまの月
彼女がシドニーに転勤になったのは、付き合って二年目の春だった。
時差は一時間。距離は七千八百キロ。電話はできるけど、どっちかが忙しくて、話せない日のほうが多かった。
出発の前の夜、彼女が言った。
「毎晩九時に、月見ることにしない? 同じ月だし」
「南半球だと、月の欠け方、逆になるらしいよ」
調べたばっかりだった。彼女は「へえ」と言って、
「じゃあ、反対側から同じもの見てるってことじゃん。いいじゃん」
と言った。いいのか、それは。
それから二年、僕は毎晩九時にベランダに出た。晴れの日も曇りの日も。雨の日は、窓から雲を見た。四回くらい、九時を忘れて十一時に思い出して、あわてて出たこともある。彼女には言っていない。
彼女からはときどき、写真が来た。シドニーの夜空。ブレていることが多かった。僕も撮って送った。僕のもブレていた。スマホで月を撮るのは難しい。二枚並べると、確かに欠け方が左右逆だった。ブレた月と、ブレた月。
さびしい夜もあった。九時になっても雲で何も見えなくて、ベランダでコンビニのおでんを食べながら、ぼーっとしていた夜。
そういう夜にかぎって、彼女から短いLINEが来た。
「こっち晴れ。あんたの分も見とく」
「ありがと」
「おでん?」
「なんでわかんの」
「九時に既読つかないとき、だいたいおでん」
当たっていた。
二年後の三月、彼女は帰ってきた。成田で彼女は、でかいスーツケースを二つ引きずって出てきた。一つは、ほぼお土産だった。
その夜、二人でベランダに出た。
月は、見慣れた欠け方をしていた。彼女は「うわ、逆」と言った。
「逆なのはシドニーのほうでしょ」
「わたしにとっては、こっちが逆なの。二年見てたんだから」
僕のポケットには、指輪の箱が入っていた。九時ちょうどに出そうと思っていた。
時計を見た。八時五十八分だった。
あと二分が、やたら長かった。彼女は隣で、スーツケースから出したティムタムを食べていた。
読み終えて、どうでしたか