創作見知らぬ人約4分

スマホ地蔵

けやき台団地の五号棟に越してきたのは昭和四十九年で、家賃が二万三千円だった。トイレットペーパーがなくなった年。うちは一ダース買いだめして、主人の母に「みっともない」と言われた。その一ダースを使いきる前に、上の子が生まれたんだったと思う。いや、下の子だったかしら。

話がそれた。管理人さんのことを書こうと思ったんです。

春から、管理事務所の窓口に若い人が座るようになった。野々村さんという。三十かそこら。前の管理人さんは六十代の元郵便屋さんで、植木の手入れから回覧板の配り忘れまで面倒を見てくれたけど、腰を悪くしてやめた。

野々村さんは、一日じゅうスマホを見ている。

耳に白い小さいのを差して、窓口の中で下を向いている。用があってガラスをこんこんやると、片っぽだけ外して「はあ」と言う。

六月に、私は五号棟の外階段ですべった。

外階段は鉄の段で、雨が降るとつるつるになる。三段目でお尻をついて、手すりにひじをぶつけて、湿布を十日貼った。それで窓口に言いに行ったら、野々村さんは「はあ。上に伝えときます」と言って、また下を向いた。

集会所の朝の体操の仲間に話したら、みんな似たような目にあっていた。電球が切れたと言っても「伝えときます」。ゴミ置き場のカラスも「伝えときます」。佐伯さんが「ありゃ置物だね」と言って、山口さんが「お地蔵さんだよ、スマホ地蔵」と言った。それから私たちは陰でそう呼んだ。お地蔵さんには悪いことをした。

七月の終わりに、掲示板にお知らせが出た。

〈外階段のすべり止め工事について

理事会で検討しましたが、今年度は修繕積立金の都合により見送りとなりました。

雨の日は手すりをご利用ください。

けやき台団地管理組合 理事会〉

手すりは使ってますよ、と私は掲示板に向かって言った。主人は「そりゃ金がないんだろう」と競馬新聞から顔も上げなかった。

それから二か月ほどして、同じ掲示板に、紙がもう一枚貼られた。

ボールペンの手書きで、字がずいぶん下手だった。

〈10月10日(土)・11日(日)

5号棟 外階段に すべり止めを ぬります

かわくまで 東がわの階段を つかってください

ごめいわくを おかけします 管理人 野々村〉

なんだ、結局やってくれるんじゃないの、と思った。業者さんが来るんだろうと。

土曜の朝、ゴミを出しに行ったら、外階段にジャージの男の人がしゃがんでいた。

野々村さんだった。

ペンキの缶と刷毛と、マスキングテープ。耳にはやっぱり白いのを差していて、段の端に置いたスマホを横目で見ながら、黄色い線を一本ずつ引いていた。スマホの画面には、知らない男の人がやっぱり階段に黄色い線を引いている動画が流れていた。

「会社の人が来るんじゃなかったの」

声をかけると、野々村さんは片っぽ外して立ち上がった。ひざにペンキがついていた。

「いや、理事会で通んなかったんで。塗るだけなら、まあ」

「お金は」

「ホームセンターで九千八百円です。経費で落ちるかもしんないし、落ちないかもしんないです」

それから「すいません、そこ、まだ乾いてないです」と言った。私はゴミ袋を持ったまま、片足を上げたところだった。

あの人が窓口で一日じゅう見ていたものが、ぜんぶ階段の塗り方だったとは思わない。そんなにうまい話はない。でも六月から十月まで、少しは見ていたでしょうよ。三段目のところだけ、線が二本になっていた。

私は家に帰って、主人に言った。

「あんた、月曜から外階段使っていいわよ」

「おれは、ずっと使ってる」

月曜の朝の体操で、佐伯さんがまた「置物」と言いかけた。私はラジオ体操第二の、腕を大きく回すところで、佐伯さんの肩を一回たたいた。帰りに窓口のガラスをこんこんやって、片耳だけ外した野々村さんに、麦茶のペットボトルを一本差し出した。

#くすっと笑えていい話 #心温まる話

読み終えて、どうでしたか

保存する・アプリで読む LINEで送る

アプリでは、毎日新しい物語が届きます。

← 前の話給食袋のカセット

この話を読んだ人におすすめ

134
創作見知らぬ人約3分

スタンプの送り方

病院の待合で、隣のおばあさんに「これ、どうやったら動物のが出るの」とスマホを差し出された。

67
創作見知らぬ人約2分

最初の百円

自販機の前で十円足りなかった日、スーツの男性がくれた百円玉。

64
創作見知らぬ人約2分

杖の老人

東欧の町で迷った夜、言葉の通じない老人が宿まで歩いてくれた。

161
創作見知らぬ人約5分

もうひとりの佐久間さん

丁目がひとつ違うだけの、同じ番地の同じ苗字。四十年あまり、郵便を届け合ってきた相手の顔を、私はまだ知らない。

171
創作家族約4分

父の豆知識は九割うそ

父の言う豆知識は、だいたい嘘だ。大学入試の朝、会場まで車で送ってくれた父が、降りる直前にまた何か言い出した。

146
創作家族約3分

冷蔵庫のホワイトボード

八十一歳の祖父に、免許を返してほしい。家族四人の話し合いは、冷蔵庫のホワイトボードの上で進んだ。