腕で走る
大学の陸上部でマラソンをやっていた。
箱根を目指していた。三年の秋、練習中に車にはねられて脊髄を損傷した。両足が動かなくなった。
医者は、また歩ける可能性は低いと言った。言い方は丁寧だったけど、要するに無理だと。
退院してから半年は部屋から出なかった。走ることしかなかった。それがなくなったら、何も残っていないと思っていた。
ある日、後輩の田中が勝手に部屋に上がってきた。母が入れたらしい。
「先輩、車いすマラソンって知ってます?」
知らなかった。興味もなかった。
田中はスマホで動画を見せた。三輪の、低い車いすに乗った選手たちが、下り坂をものすごい速さで駆け下りていた。腕だけで時速四十キロ近く出るらしい。
「先輩、腕は動くじゃないですか」
雑な理屈だと思った。
なのに動画から目が離せなかった。三回見た。
一か月後には競技用の車いすに乗っていた。借りたやつ。
最初は、まっすぐ進むこともできなかった。右に曲がっていった。腕はすぐに限界が来て、手のひらは豆だらけになって、つぶれた。でも、坂を下ったときの風の感じは、走っていたときと同じだった。
二年後、地元の市民マラソンの車いすの部で、スタートラインに並んだ。
沿道に陸上部のやつらがいた。「先輩 がんばれ」と書いた段ボールを持っていた。字が汚かった。田中の字だった。
号砲。
四十二・一九五キロ。三十キロあたりで、腕が上がらなくなった。上り坂では何回も止まりそうになった。後ろから来た選手に抜かれた。
三十五キロ地点で、段ボールを持った田中がいた。なぜか、そこまで自転車で先回りしていた。
「先輩、足、使ってないんだから、腕くらい動かしてくださいよ」
むかついた。むかついて、腕を回した。
ゴールしたタイムは、二時間十一分だった。車いすの部で十四人中十一位。
ゴールの先で田中が待っていた。
「先輩、走れましたね」
「走ってない。こいでた」
「どっちでもいいっすよ」
足は動かないままだ。今年で四回目のフルを走る。こぐ。どっちでもいい。
読み終えて、どうでしたか