創作仕事約2分

メーターを倒し忘れた夜

タクシーに乗って二十年になる。

深夜二時すぎ、住宅街の交差点で、若い女の人が手を挙げていた。赤ちゃんを抱いていた。パジャマの上にダウンを羽織っただけだった。

「救急病院、お願いします。熱が、けいれんして」

後ろの席で、女の人は赤ちゃんの名前をずっと呼んでいた。「ゆうくん、ゆうくん」。

一番近い救急の病院まで、普通なら二十分。信号が赤になるたびに、後ろで息をのむ音がした。私は、法律の範囲で、急いだ。範囲の端っこのほうで。

病院に着くと、女の人は財布を探して、なかった。家に置いてきたらしい。

「すいません、あとで必ず」

「いいから、早く」

女の人は頭を下げて、救急の入口に走っていった。

私はメーターを見た。倒していなかった。乗せた瞬間に、忘れていた。二十年やっていて、初めてだった。

会社に戻って、日報に何と書くか迷った。空車のまま二十分、走ったことになる。結局「回送」と書いた。うそではない。

一年たって、会社に手紙が届いた。

「深夜に子どもを病院に運んでいただいた者です。ナンバーを覚えていたので、会社を探しました。

お代をお支払いしたくて問い合わせたのですが、その夜の記録がないと言われました。メーターを倒さなかったんですね。

お金を送っても受け取っていただけないと思うので、写真を送ります」

写真が一枚入っていた。一歳くらいの男の子が、ミニカーのタクシーを両手に持って、よだれを垂らしていた。黄色いタクシー。うちの会社の車は緑なので、全然違う車種だった。

裏に書いてあった。

「息子のいちばんのお気に入りです。うちの子は、タクシーは全部黄色だと思っています」

私はその写真を、サンバイザーに挟んでいる。お客さんにたまに聞かれる。「お孫さんですか」。説明が長くなるので、「まあ、そんなもんです」と言っている。

#心温まる話

読み終えて、どうでしたか

保存する・アプリで読む LINEで送る

アプリでは、毎日新しい物語が届きます。

← 前の話三十年前のネジ

この話を読んだ人におすすめ

46
創作仕事約2分

丸のついた献立表

給食室で三十年。毎日きれいに空になって戻ってくる食器があった。

157
創作仕事約3分

十九時四十分の値引き

閉店まであと一時間二十分。スーパーの鮮魚売り場で値引きシールを貼るパートと、毎晩同じ時刻に来る作業着の客。

130
創作仕事約3分

フロント引き継ぎノート

駅前の古いビジネスホテル。夜勤のフロント係が書きつなぐ引き継ぎノートに、長期滞在の客のことが増えていく。

43
創作仕事約2分

名札の名前

誰にも名前を呼ばれない清掃員に、ある新入社員が言った一言。

42
創作仕事約2分

閉店の日の棚

五十年続いた町の本屋が、最後の日に作った特別な棚。

140
創作仕事約3分

片側交互通行

夜の県道の工事現場。赤い誘導灯を振る六十七歳と、二十歳の新人。夜明けまで、あと六時間。