創作仕事約2分

名札の名前

私はオフィスビルの清掃をしている。

朝五時半から、二十八階建てのビルのトイレと給湯室と廊下。社員の人たちが出勤してくる八時半には、たいてい終わっている。

名札はつけている。「木村」。でも、名前を呼ばれたことはない。挨拶しても、返ってくるのは三回に一回。イヤホンをしてる人も多い。それはそれで、しょうがないと思っていた。私たちの仕事は、目立たないほうがいい仕事なので。

ある年の四月、エレベーターホールで、スーツがぶかぶかの若い男の人とすれ違った。新入社員だろう。名札を首から下げて、緊張した顔でエレベーターのボタンを連打していた。連打しても早くは来ない。

「おはようございます」と私は言った。

男の人は、びくっとして振り向いて、私の胸の名札を見た。

「お、おはようございます、木村さん」

私はモップを持ったまま、固まった。

男の人は、なんでそんな顔をされたのかわからない、という顔をした。それから、少し言いよどんでから言った。

「あの、母がビルの清掃やってて。名前呼ばれないのが一番へこむって言ってたので。すいません、急に」

エレベーターが来て、男の人は乗っていった。

次の日も、「おはようございます、木村さん」。その次の日も。雨の日は「足元すべるんで気をつけてください、木村さん」。私のほうが言うことだと思う、それは。

半年くらいたったころ、変なことが起きた。その人の部署の人たちも、私の名前を呼ぶようになったのだ。「木村さん、おはようございます」。十五階の、営業部。

一回、十五階の給湯室の電子レンジの上に、付せんが貼ってあった。

「木村さんへ 先週、電子レンジの中でカレーを爆発させたのは私です。すみませんでした。 営業部 井上」

名前を呼ばれるようになると、謝られることも増えるらしい。

あれから五年。あの男の人は、係長になった。今も毎朝エレベーターホールですれ違う。スーツは、もうぶかぶかじゃない。

先月、その人がエレベーターを待ちながら言った。

「木村さん、下の名前なんていうんですか」

「知ってどうするんですか」

「いや、なんとなく」

教えなかった。名字で十分だ。

#心温まる話

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