足を踏む人
社交ダンスを習いたいと言ったのは私のほうで、夫はしぶしぶついてきた。
公民館の教室。月謝は三千円。生徒は十二人で、男性は夫を入れて三人しかいなかった。先生は元宝塚の人で、背筋が異様にまっすぐだった。
夫は、はっきり言って、へただった。
ワルツの三拍子が取れない。いち、に、さん、の「さん」で必ず私の右足を踏む。二回目のレッスンで踏まれたところが青くなって、私は湿布を貼って三回目に出た。
「あなた、わざとじゃないでしょうね」
「わざとなら、もっとうまく踏む」
意味がわからない返事をして、夫はまた踏んだ。
ほかの奥さんたちは、先生や、もう一人の上手な男性と組んで楽しそうに回っていた。私はちょっとうらやましかった。夫は汗をかいて、ステップの図を書いたメモを胸ポケットに入れていた。ときどき踊りながらそれをのぞくので、余計に踏んだ。
半年たって、発表会があった。
市民ホールの小さいほう。客席には、生徒の家族が五十人くらい。私たちの番が来て、夫は舞台袖で三回トイレに行った。
曲が始まった。
一小節目で踏まれた。二小節目でも踏まれた。三小節目、夫の顔を見上げたら、真っ青な顔で、口の中で「いち、に、さん」と数えているのが見えた。四十年いっしょにいて、この人がこんなに必死な顔をしているのを見たのは、たぶん、娘が生まれた日以来だった。
私は、踏まれるのを覚悟して、力を抜いた。
四小節目から、踏まれなかった。
最後まで、一回も。
曲が終わって、私たちは先生に教わったとおりお辞儀をした。夫のお辞儀は深すぎて、頭が私の肩の高さまで下がった。客席で娘が手を叩いていた。孫が「じいじ、ころばなかった」と大きな声で言って、ちょっと笑いが起きた。
帰りの車で、夫に聞いた。
「どうして途中から踏まなくなったの」
夫はしばらく黙って運転していた。赤信号で止まってから言った。
「お前が、ぐにゃっとなったから」
「ぐにゃっと?」
「いつも、踏まれないように足をよけるだろう。よけるほうに行っちまうんだ、こっちの足が。今日は、よけなかった」
それだけ言って、夫は信号が青になったのに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされた。
私はそれから、夫と踊るときは、足をよけないことにしている。
それでも、たまには踏まれる。
読み終えて、どうでしたか