連載『閉店まで、あと十日』 第10回
閉店の日 ― 最後の客
閉店の日。十月六日。月曜日。
あたしは学校を休んだ。親には「体調悪い」と言った。うそだってバレてたと思う。母は「写真館?」と聞いて、あたしが黙ってたら「お昼、何か買って持ってきなよ。大黒さんの分も」と言った。
写真館は朝から片付けてた。業者の人が来てソファとショーケースを運び出した。壁の写真はじいさんが一枚ずつ外して段ボールに入れた。外したあとの壁には、四角い日焼けの跡がいっぱい残った。
ネガは市の資料館が引き取ることになった。先週あたしが資料館にメールしたら、学芸員の人が飛んできた。「昭和の町の記録として、ものすごく貴重です」と言って目をきらきらさせてた。じいさんは「客が取りに来たら返せよ」と三回言って、学芸員の人は三回うなずいた。
昼はコンビニのおにぎりを二人で食べた。じいさんは鮭で、あたしはツナマヨ。椅子がもう運ばれてたので、撮影室の床に座って食べた。
「大黒さん」
「なんだ」
「最後に、一枚撮らせてください」
じいさんはおにぎりの包装を丸めながら「何を」と言った。
「大黒さんを」
「断る」
即答だった。わかってた。
「八百屋のおじさんに頼まれたんです」
「あいつか」
「五十八年、人の写真ばっかりで、自分のは一枚もないって」
じいさんは丸めた包装を手の中でさらに小さくした。
「あのカメラで撮らせてください」
あたしは撮影室のでかい木のカメラを指さした。まだ運び出されてなかった。明日、資料館が取りに来る。
じいさんは長いこと黙ってた。それから立ち上がった。膝が鳴った。
「フィルムは、あと一枚ある」
それから一時間、じいさんはあたしにあのカメラの使い方を教えた。黒い布のかぶり方。ピントガラスの見方。像が上下逆さに映ること。ピントの合わせ方。シャッターの切り方。フィルムの入れ方。
「逆さに映るんですか」
「全部逆さだ。慣れろ」
「五十八年、逆さの世界見てたんですか」
「そうだな」
じいさんは床のすり減ったビニールテープの目印のところに立った。背景はもう片付けられてたので、日焼けの跡が四角く残った白い壁だった。
あたしは黒い布をかぶった。ピントガラスに逆さまのじいさんが映った。小さくて背中が曲がってて、カーディガンのボタンがまた一個ずれてた。
直しに行こうかと思って、やめた。
「こっち見てください」
じいさんはカメラのほうを見た。見て、それから、ほんのわずかに首をかしげた。
あたしはシャッターを切った。
カシャン。
重たい音がした。
*
現像はじいさんがやった。暗室はまだ片付けてなかった。できあがった写真をじいさんは長いこと見て、「ピントが甘い」と言った。
甘かった。ほんのちょっと、じいさんの輪郭がにじんでた。
「でも、悪くない」
じいさんはその写真を白い額に入れて、空っぽのショーウィンドウに飾った。五十五年あの女の人がいた場所に。
「閉店するのに、飾るんですか」
「店を閉めるだけだ。建物はしばらくこのままだ。取り壊しは、まだ決まってない」
夕方、店のシャッターを下ろした。ショーウィンドウのところだけはシャッターがなかった。昔からないらしい。
ガラスの向こうで、ピントの甘いじいさんがちょっと首をかしげて商店街を見ていた。
「大黒さん、これからどうするんですか」
「知らん」
「……知らんって」
「写真でも撮りに行くか。東京にでも」
じいさんはあたしのほうを見ないで言った。
「ネガ、取りに来る客がいたら、資料館に行けって言え」
「はい」
「それから」
「はい」
「撮るなって言ったのに撮ったやつ。あれ、まだスマホに入ってるだろ。一日目の、おまえが映りこんでるやつ」
入ってた。消してなかった。
「……消しましょうか」
「消すな」
じいさんはそれだけ言うと、商店街を駅のほうへ歩いていった。背中が小さかった。途中で八百屋の前で止まっておじさんと何か話して、柿を一個もらって、また歩いていった。
あたしはショーウィンドウの前に残った。
ガラスにあたしが映ってた。ガラスの向こうの、ピントの甘いじいさんの上に、制服のあたしが重なった。
スマホを出して、撮った。
読み終えて、どうでしたか