連載『閉店まで、あと十日』 第9回
前日 ― 未引取の客
日曜日の午後一時すぎ、商店街の入口にタクシーが止まった。
降りてきたのは、二十代の終わりくらいの女の人と、車椅子のおばあさんだった。おばあさんは紺のカーディガンを着て膝に毛布をかけ、白い髪をきれいにまとめていた。
写真館の前には「本日貸切」の張り紙がしてあった。莉子が昼に書いたものだ。貸切の写真館というのは変だと思ったが、ほかに書き方が思いつかなかった。
大黒は店の前に立っていた。カーディガンのボタンは今日は全部合っていた。莉子が朝に直した。
車椅子が店の前まで来た。
大黒は何か言おうとして、言わなかった。
おばあさん、芳江は写真館の看板を見上げた。それからショーウィンドウを見た。
ウィンドウは空っぽだった。写真は朝のうちに外して、店の中のテーブルに置いてあった。
「あら」と芳江は言った。「なんにも飾ってないわね」
孫の女の人が困った顔で大黒を見た。大黒は店のドアを開けた。カランと鳴った。
中に入ると、芳江はきょろきょろした。茶色いソファ。ガラスのショーケース。壁の写真。片耳の欠けた招き猫。
「写真屋さん」と芳江は言った。
「はい」と大黒は言った。
「写真、取りに来たの。置いてきちゃったから」
孫の女の人が口を押さえた。
大黒はテーブルの上の額を持ってきた。五十五年ウィンドウに飾られていた写真と、「関口芳江様」と書いてあるほうの白い封筒。
封筒の中から四つ切りの印画紙を出した。額の中の写真と同じ写真だったが、こっちは日に焼けていなくて、白いブラウスが本当に白かった。
芳江はそれを受け取ると、膝の毛布の上に置いてじっと見た。
長い時間だった。壁の時計の秒針がやたら大きく鳴っていた。
「これ、わたし?」
「そうです」
「こんな顔しとったんね」
群馬の言葉と大阪の言葉がまざった、変なしゃべり方だった。
「お代、いくらでした?」
大黒は少し考えてから言った。
「もう、いただいてます」
うそだ、と莉子は思った。「未引取」と書いてあったのだから。
芳江は「そう」と言って写真をもう一回見た。それから顔を上げて大黒の顔を見た。
じっと見た。
「写真屋さん、前に会ったこと、ある?」
大黒はしばらく黙っていた。
「五十五年前に、一回だけ」
「そう」
芳江はそれ以上何も聞かなかった。覚えていないのか、覚えていて聞かないのか、莉子にはわからなかった。孫の女の人にも、たぶん大黒にもわからなかった。
芳江は写真を膝の上に置いたまま、店の中を見回した。七五三や成人式や結婚式の写真を、壁の端から一枚ずつ。
「ええ写真ばっかりやね」
「はい」
「みんな、ちょっと首かしげとる」
莉子は壁を見た。言われてみるとそうだった。大黒の撮った写真の人たちは、みんなほんのわずかに首をかしげていた。五日間毎日見ていたのに、莉子は気づかなかった。
帰りぎわ、孫の女の人が大黒に深く頭を下げた。何か言おうとして、泣いて、言えなかった。
芳江はタクシーに乗る前に写真館のほうを振り返って、手を振った。大黒は手を振り返さず、店の前で直立していた。
タクシーが角を曲がって見えなくなってから、大黒はゆっくり右手を上げて、下ろした。
莉子はそれを撮らなかった。カメラは首から下げていたのに、撮らなかった。
読み終えて、どうでしたか