優先席
妊娠八か月のとき、朝八時台の満員の京王線で、つわりの残りみたいな気持ち悪さで立っているのがやっとだった。
誰も席を譲ってくれなかった。みんなスマホを見ているか、寝ているふりをしていた。わたしのお腹にはマタニティマークがぶら下がっていた。見えていないわけがない。
優先席の前に立っていた男子高校生が、座っていたサラリーマンの肩をトントンとたたいた。
「すいません。この人、妊婦さんです。代わってもらえますか」
サラリーマンはばつが悪そうに立った。高校生はわたしに「どうぞ」と言った。
お礼を言って座った。高校生はぶっきらぼうにうなずいて、次の駅で降りていった。学ランのえりのホックが外れていた。名前も学校も知らない。
二か月後に息子が生まれた。
息子が大きくなるにつれ、わたしはあの高校生の話を何回もした。困ってる人がいたらちゃんと声をかけられる人になってほしいと。たぶんしすぎた。
二十年たって、息子は大学二年になった。
ある日、二人で乗った電車が混んでいて、優先席の前にお腹の大きい女の人が立っていた。息子は、優先席でスマホを見ている若い男の人の肩をたたいた。
「すいません。この人、妊婦さんです。代わってもらえますか」
一字一句同じだった。
女の人は座ってお礼を言った。息子は耳を赤くして、ぶっきらぼうにうなずいた。
降りてから息子に言った。
「今の、あの高校生と同じセリフ」
息子は顔をしかめた。
「母さんが百回話すからだよ。それしか知らないんだよ、言い方」
あの高校生は、今は四十歳くらいのはずだ。自分があの日何を言ったかなんて、覚えていないだろう。
言い方しか知らないうちの息子は、今日もその言い方しかしない。
読み終えて、どうでしたか