タクトを置いた指揮者
市民オーケストラの指揮者の佐伯先生が引退することになった。
四十年アマチュア楽団を振ってきた人だ。団員は会社員に主婦に学生、定年した人。うまい人もいれば、正直へたな人もいる。私は二十年前に高校生で入団したヴァイオリンで、へたなほうだった。今もそんなにうまくない。
佐伯先生は練習に厳しかった。同じ八小節を四十回やらせたこともある。休憩中はずっとコンビニのあんぱんを食べていた。いつもあんぱん。
最後の演奏会の曲はベートーヴェンの第九だった。市民会館の大ホールで、客席は八割くらい埋まっていた。
第四楽章の合唱が入る直前、先生がタクトを下ろした。
団員全員が息を止めた。止まるのか。誰か間違えたのか。私か。
止まらなかった。先生はタクトを譜面台に置いて、両手を下ろしたまま私たちに向かってうなずいた。振らないから自分たちで行け、ということだった。
一瞬、音が揺れた。セカンドヴァイオリンの誰かが半拍早く入りかけた。私じゃない。たぶん。コンサートマスターの吉川さんが弓を大きく動かして、体でテンポを示した。みんなが吉川さんを見て、それからお互いを見た。
音が戻った。
合唱が入った。私は弾きながら先生を見ていた。先生は指揮台の上で目をつぶって、口を半分開けていた。寝てるんじゃないかと思うくらい動かなかった。
最後の音が消えた。一秒くらい誰も動かず、それから拍手が来た。
先生は客席に一礼して振り向き、マイクなしの小さい声で私たちに言った。
「もう、大丈夫ですね」
楽屋で先生はあんぱんを食べていた。いつものやつだ。私は聞いた。
「なんで、あそこでやめたんですか」
先生はあんぱんを飲みこんでから言った。
「腕がつった」
「え」
「うそ。半分くらいうそ」
半分は本当らしい。
タクトは練習室の棚に置いたままになっている。新しい指揮者の人は振り方が全然違って、慣れるのに苦労している。合わせにくいところで誰かが「佐伯先生だったら」と言いかけると、吉川さんが「言うな」と言う。みんな笑って、もう一回頭からやる。
読み終えて、どうでしたか