十一の名前
商店街に、茶トラの太った猫がいた。
誰の猫でもないのに、毛並みはつやつやで、腹は地面につきそうだった。私が最初に見たのは魚屋の前で、店主のおじさんが「おう、トラ」と呼んで、アジの頭をやっていた。
翌日、同じ猫が花屋の店先で寝ていた。奥さんが「ミーちゃん、そこどいて」と言っていた。
パン屋では「ジョー」。本屋では「先生」。クリーニング屋では「社長」。整骨院では「横綱」。ぜんぶで十一の名前があったと、あとで知った。
その冬、猫が姿を見せなくなった。
四日目、魚屋のおじさんが花屋の奥さんに聞いた。
「トラ見なかったか。茶色のでぶ」
「トラ? ミーちゃんのこと?」
商店街の人たちは、そこで初めて、みんなが同じ猫をかわいがっていたことに気づいたらしい。三十年同じ通りで商売していて、猫の話はしたことがなかったのだ。
みんなで探した。パン屋の高校生の息子が、空き家の床下で丸くなっているのを見つけた。痩せて、半分くらいになっていた。
動物病院で、腎臓が悪いと言われた。点滴で延ばせるけど、お金がかかる。飼い主はいない。
商店街の組合の会議で、この話が出た。議題の三番目。一番目はアーケードの電球の交換で、二番目は年末の福引きだった。
結局、みんなで少しずつ出すことになった。封筒に入れて集めた。封筒の表には、それぞれが呼んでいた名前が書いてあった。「トラ」「ミーちゃん」「ジョー」「先生」「社長」「横綱」。一枚だけ、「でぶ」と書いてあった。誰のかは誰も言わなかった。
猫は春まで生きた。最後は花屋の奥さんの家の、こたつの中だった。
商店街の端の小さな植え込みに、お墓を作った。石屋の主人が、端材で小さな墓石を作ってくれた。名前を何にするかで、組合の会議が四十分もめた。
結局、何も彫らなかった。石屋の主人が「全部彫ったら石が足りねえ」と言ったので。
読み終えて、どうでしたか