カートの散歩
柴犬のコタロウが歩けなくなったのは、十六歳の冬だった。
後ろ足が立たなくなった。散歩に行けなくなって、コタロウは毎朝七時になると、玄関のほうを向いて小さく鳴いた。ふん、ふん、と鼻を鳴らすような声で。
ネットで、ペット用のカートを買った。一万二千八百円。組み立てに四十分かかった。説明書が中国語と英語だった。
最初の朝、コタロウをカートに乗せて外に出た。コタロウはカートの縁にあごを乗せて、道の匂いをかいだ。電柱の前を通ると、止まってほしそうに首をのばした。止まると、長いことかいでいた。
公園に着いたら、しっぽが動いた。ちょっとだけ。
散歩道ですれ違う人が、声をかけてくるようになった。
「あら、コタロウくん、今日は乗り物?」
「おじいちゃんになったねえ」
「うちのも去年まで乗ってたのよ、それ」
知らない人ばっかりだった。私は十六年、朝の散歩はイヤホンで音楽を聴きながら歩いていたので、誰とも話したことがなかった。コタロウには、私の知らない知り合いがたくさんいた。黒いトイプードルの「ショコラ」とは、どうやら仲が悪かったらしい。ショコラの飼い主のおばさんが「この子たち、毎朝にらみ合ってたのよ」と笑った。知らなかった。
三か月、カートで散歩した。
最後の日の朝、コタロウは顔を上げる力もなかった。公園に着いたとき、鼻だけがひくひく動いた。
その夜、コタロウは死んだ。
次の朝、七時に目が覚めた。散歩に行く必要はない。でも、なんとなく外に出た。カートは玄関に置いたまま。
公園に、散歩仲間の人たちがいた。私がひとりで来たのを見て、みんな、何も聞かなかった。
ショコラの飼い主のおばさんが、ショコラのリードを持ったまま、近づいてきた。
「ショコラ、今朝、あの電柱のとこで止まって動かなかったのよ。いつもにらむ相手がいないから」
ショコラは、おばさんの足元で、私のほうを見てうなった。
仲、悪いままだった。
読み終えて、どうでしたか